第2節 殺傷事件の発生 既に見てきたように、関東大震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発 生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺と いう表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国 人、内地人も少なからず被害にあった。加害者の形態は官憲によるものから官憲が保護してい る被害者を官憲の抵抗を排除して民間人が殺害したものまで多様である。また、横浜を中心に 武器を携え、あるいは武力行使の威嚇を伴う略奪も行われた。 殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあ たり、人的損失の原因として軽視できない。また、殺傷事件を中心とする混乱が救護活動を妨 げた、あるいは救護にあてることができたはずの資源を空費させた影響も大きかった。自然災 害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大 規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある。 この節では殺傷事件の概要を述べるが、当時の混乱の中では同時代的にもこの種の事件のす べてを把握することはできず、また、後に述べるような政府の対応方針もあって、公式の記録 で全貌をたどることはできない。現在までの歴史研究や掘り起こし運動はこの欠を補い、災害 の教訓を継承する活動としても有意義である。しかしながら、本事業の目的は歴史的事実の究 明ではなく、防災上の教訓の継承であるので、これらの成果の概要についてはコラムに譲り、 以下では当時の公的記録と公文書に依存した叙述を行う。第一に、現在までに確認されている 当時の官庁の記録によって殺傷事件の概要を述べ、あわせてそれらの史料の性格と限界を検討 する。第二に、略奪事件と治安維持への取り組みを、直近の類例であるサンフランシスコ大地 震も参照しながら検討する。 表4-8 官庁記録による殺傷事件被害死者数 司法省報告書掲載 警察に 起訴事件 よる 日本人 中国人 日本人 種別 被害者 朝鮮人 戒厳業務詳報掲載 警察・民間 軍隊による 人共同 朝鮮人 日本人 朝鮮人 軍通牒 の不明 朝鮮人 東京 39 25 1 神奈川 千葉 2 74 4 20 2 埼玉 94 1 95 群馬 18 4 22 栃木 茨城 6 2 1 8 1 233 58 福島 合計 2 1 27 19 12 8 約215 合計 約328 8 115 1 1 3 2 1 39 注:戒厳業務詳報掲載の警察民間人共同の被害者のうち約 200 は中国人との説あり - 206 - 27 約215 約578 1 殺傷事件の概要 (1) 朝鮮人への迫害 震災直後の殺傷事件で中心をなしたのは朝鮮人への迫害であった。そのきっかけとなった流 言に関しては前節で検討した。2日午後以降に発生した広範な朝鮮人迫害の背景としては、当 時、日本が朝鮮を支配し、その植民地支配に対する抵抗運動に直面して恐怖感を抱いていたこ とがあり、無理解と民族的な差別意識もあったと考えられる。歴史研究、あるいは民族の共存、 共生のためには、これらの要因について個別的な検討を深め、また、反省することが必要であ る。一方で、防災上の教訓としては、植民地支配との関係という特殊性にとらわれない見方も 重要である。時代や地域が変わっても、言語、習慣、信条等の相違により異質性が感じられる 人間集団はいかなる社会にも常に存在しており、そのような集団が標的となり得るという一般 的な課題としての認識である。 軍や警察の公的記録では作業量が大きかった朝鮮人の保護、収容が強調されるが、特に3日 までは軍や警察による朝鮮人殺傷が発生していたことが東京都公文書館所蔵の「関東戒厳司令 部詳報」の「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」 ( 『関東大震災政府陸海軍関係史料』第二巻 に翻刻、以下「兵器使用一覧表」と略称。東京都公文書館所蔵の原本は現在公開が停止されて いるが、同館の協力により個人名を抹消した電子複写を閲覧して校合した)から確認できる。 戒厳司令部が陸軍各部隊からの報告に基づいて作成したこの史料では、軍隊の歩哨や護送兵の 任務遂行上のやむを得ない処置として11件53名の朝鮮人殺害が記録されている。一方、警察の 記録で警察関係者による朝鮮人殺傷は確認できない。しかし、 「兵器使用一覧表」には次のよう な叙述がある。3日午後に野戦重砲兵第一連隊の兵卒3名が洲崎警察署の要請で巡査5名とと もに朝鮮人約30名を移送中、永代橋付近で彼らが逃亡した。隅田川に飛び込んだ17名を巡査の 依頼で兵卒が射殺したが、この際飛び込まずに逃亡しようとした他の朝鮮人は「多数の避難民 及び警官の為めに打殺せられたり」 。これにより、巡査と民間人が共同しての殺傷行動があり、 それは警視庁の公刊の記録に記載されなかったことがわかる。 民間人による殺傷行動についての官庁資料で最も網羅的なものは、震災直後に内務大臣を務 めた後藤新平の文書中に残る「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」 ( 『現代史 資料(6)関東大震災と朝鮮人』に翻刻、以下「刑事事犯等調査書」と略称。なお、後藤新平 文書を引き継ぐ後藤新平記念館、 市政専門図書館では現在原本を確認できないので翻刻による) である。これは司法省が作成したもので、火災の原因、朝鮮人犯行の流言、朝鮮人の犯罪、朝 鮮人・朝鮮人と誤認した内地人・中国人を殺傷した事犯、治安維持令違反、暴利取締令違反、 社会主義者の行動、軍隊の行為、そして、警察官の行為、と章を分けている。1923(大正12) 年11月15日現在の調査結果を中心に作成されているところから、同年12月の帝国議会開会を前 に議会で問題となりそうな課題について、司法省としての見解をまとめたものと思われる。 - 207 - この資料によれば、朝鮮人による殺傷事件は殺人2件、傷害3件が記録されているが、すべ て被疑者不詳であり、殺人に関しては被害者も不詳である。このため、起訴には至らなかった と考えられる。流言にあった蜂起、放火、投毒等については、 「一定の計画の下に脈絡ある非行 を為したる事跡を認め難し」と否定している。検察事務統一のため、9月11日に臨時震災救護 事務局警備部で開催された司法省刑事局長主宰の司法委員会会同で、朝鮮人の「不逞行為に就 ても厳正なる捜査検察を行ふこと」が決議され、翌日各主務長官の承認を得て実施されている (「関東戒厳司令部詳報」)。この方針に従って調査したものの、上述の程度にしか確認できな かったということである。 この資料に挙げられた朝鮮人殺傷事件は、 「犯罪行為に因り殺傷せられたるものにして明確に 認め得べきもの」として起訴された事件だけであり、朝鮮人が受けた迫害としては一部分にと どまる。9月2日から6日までに発生した53件の事件で、合わせて朝鮮人233名を殺害し、42 名に創傷を負わせたことにより、11月15日現在、367名が起訴されていた。朝鮮人をめぐる流言 の中で、2日夜から被災地の焼け残り地域や周辺部にほぼくまなく町内、部落ごとの自警団が 組織され、通行人を尋問し、朝鮮人や怪しいと考えた者に暴行を加えた。自警団の原型が震災 以前から警察の奨励によってできていた地域もあったが、多くは震災直後に自然発生的に形成 された。しかし、当時武器を持った民間人集団はすべて「自警団」と表現されたので、その性 格を一概に論じることはできない。 事件の発生件数は3日が最多であるが、4日から5日にかけて千葉県内で官憲に引き渡そう と朝鮮人を護送中のところを殺害した3件(死者54名、中山村若宮地先2件、船橋町九日市) と、4日から6日にかけての埼玉県と群馬県で警察官による護送中、あるいは警察署内に保護 されている朝鮮人を襲撃して殺害した5件(死者約81名、本庄警察署、熊谷町、神保原町、寄 居警察署、藤岡警察署)でこの史料で判明する朝鮮人死者の半数以上を生じている。一度流言 が広がり、それを信じた人々が行動を起こすと、現場の警察官の説得でそれを止めることは困 難な例が多数あったことがわかる。一方で、この種の事件の比率が高いのは、現場に警察官が いるなど、事件が把握しやすかったという事情のほか、検挙の方針が影響している。前述の司 法委員会会同で、震災時の殺傷事件は「司法上之を放任するを許さず、之を糾弾するの必要な るは閣議に於て決定せる処なり。然れども情状酌量すべき点少なからざるを以て、騒擾に加は りたる全員を検挙することなく、 検挙の範囲を顕著なるもののみに限定すること」 としながら、 同時に「警察権に反抗の実あるものの検挙は、厳正なるべきこと」を決議して翌日から実施し ている( 「関東戒厳司令部詳報」 ) 。全関係者を検挙するのではなく、官憲に対して挑戦的であっ た事件を重点的に検挙・起訴したのである。 なお、この「刑事事犯等調査書」に司法省から陸軍省への問い合わせの回答として収録され た事例で、6日午後2時50分ごろ、市川町字新田389番地先で殺害された朝鮮人1名が、落伍し て動けなくなったため、護送兵が「青年団及消防組の首脳者と覚しき者」に引き継いだ後、殺 害された事件がある。しかし、これに相当する起訴は行われていない。また、警視庁『大正大 震火災誌』 (1925年7月)によれば、東京府下で警視庁が被疑者を検挙した殺人事件3件(被害 - 208 - 者は各1名)が不起訴となっているが、これらの件も、 「刑事事犯等調査書」には掲載されてい ない。このように、当時、官憲が殺傷事件の発生を認知し、あるいは公表した事例でも、犯人 を確定して起訴していなければ上述の犠牲者233名には含まれない。 朝鮮人被殺害者数の全体について、朝鮮総督府の記録によれば、10月22日現在、内務省は「朝 鮮人被殺人員」を約248名と把握していた。しかし、朝鮮総督府東京出張員はこれを前提に「内 査したる見込数」として、東京約300、神奈川約180、埼玉166、栃木約30、群馬約40、千葉89、 茨城5、長野3の合計約813名を挙げている(大正12年12月朝鮮総督府警務局,「関東地方震災 ノ朝鮮ニ及ホシタル影響」,斉藤実文書,『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅳ』影印) 。内務 省の把握が部分的であることは、当時の植民地官僚の目にも明らかだったのである。その後、 総督府は震災による朝鮮人の死者・行方不明者を832名と把握して、1人200円の弔慰金を遺族 に支給した(大正13年6月,朝鮮総督府官房外事課,「関東地方震災時に於ける朝鮮人問題」, 『現代史資料(6) 』所収) 。この際、死亡が災害の直接の結果か、殺傷事件によるものかは区 別していない。しかし、日本人の死者、行方不明者へ一律で配布されたのが御下賜金の1人16 円であったことと対比すれば、 200円という金額は政府が朝鮮人の被災を特異なものと捉えられ ていたことを示している。 (2) 中国人の殺傷 「刑事事犯等調査書」は、中国人への反感に起因する事件はなく、朝鮮人と誤認して中国人 を殺傷した事件が9月4日と5日の4件に発生して、被害者の死亡3名、負傷5名が生じたと する。これに関する起訴被告人は12名である。この他、僑日共済会長王希天への危害(王希天 事件)及び大島町八丁目付近での中国人百数十名の被害(大島町事件)について、 「厳に之が調 査を為したるも其の事跡明ならず」と特記している。 しかし、大島町事件の実在は公的記録からも明らかである。 「兵器使用一覧表」には、9月3 日午後3時ごろ、大島町八丁目付近で野戦重砲兵第一連隊岩波少尉以下69名と騎兵第14連隊の 11名が群集と警官40~50名が連行した朝鮮人約200名と出会い、 その処置を協議中に騎兵卒3名 が朝鮮人の首領3名を銃把で殴打したことから、群集及び警察官と朝鮮人が争闘となり、軍隊 は防ごうとしたが、朝鮮人は全部殺害されたという事件が記録されている。これには被殺者が 中国人だとの説があるが、軍隊側は朝鮮人だと確信していたという付記がある。これは一件の 事件としては震災時に生じた最大の殺傷事件である。 この事件に関しては、外務省記録にも関係文書がある。このうち、現在、国立公文書館アジ ア歴史資料センターによってインターネット上で画像が公開されている「大島町事件其他支那 人殺傷事件」の綴(レファレンスコードB04013322800)は、外務省内で回覧され大臣、次官を はじめとする関係者の花押が記された文書群である。その冒頭に収録された坪上(貞二)書記 官「支那人ニ関スル報道 九月六日警視庁広瀬外事課長直話」には、 「九月三日大島町七丁目ニ 於テ鮮人放火嫌疑ニ関連シテ、支那人及朝鮮人三百名乃至四百名三回ニ亘リ銃殺又ハ撲殺セラ - 209 - レタリ」とある。また、9月21日、亜細亜局「支那人王希天行衛不明ノ件」によれば、 「本所大 島町付近ニ於テ約三百名ノ支那労働者殺害セラレタル事実ハ、九月十六日、警視総監ノ出渕局 長ニ言明(正力官房主事熱心ニ之ヲ裏書セリ)セル所」 、と警視庁が外交問題となり得る中国人 労働者大量殺害事件としてこの事件を外務省に伝えていたことがわかる。そして、11月8日、 亜細亜局出淵(勝次)局長口述とある亜細亜局作成の「王希天問題及大島町事件善後策決定ノ 顛末」では「 (十一月)七日閣議散会後、内務大臣ヨリ本件ニ付キ相談シ度シトテ外務、司法、 陸軍各大臣ノ集合ヲ求メ、四大臣鳩首協議中偶々総理大臣モ参加シテ本件ヲ議シタルガ、結局 本件ハ諸般ノ関係上之ヲ徹底的ニ隠蔽スルノ外ナシト決定」したと記録されている。政府首脳 は、事件被害者を中国人と理解しながら、公式にはそれを認めないことを決定したのである。 (3) 日本人の殺傷 日本人の殺傷で特異なのは、9月16日の甘粕憲兵大尉による無政府主義者大杉栄とその内妻 と甥の殺害事件(甘粕事件、あるいは大杉事件)である。これは、軍隊、警察による殺傷行為 としては唯一、犯罪として軍法会議で裁かれ、甘粕大尉ほか1名が有罪判決を受けた。本件は 意図的な犯罪行為であり、時期的にも震災に直接関連した事件ではないように思えるが、実行 犯の憲兵が軍法会議の審理で、亀戸警察署での社会主義者殺害を聞き知ったことが動機の一つ であるとしているところから、震災直後の殺傷事件との関連がある。 亀戸警察署での事件に関して、 「刑事事犯等調査書」は、9月4日夜に亀戸警察署構内におい て自警団員4名と社会主義者10名が喧噪して制止できなかったため、警備にあたっていた軍隊 が殺害したと記録する。社会主義者の殺害は亀戸事件と呼ばれるが、自警団員の殺害、あるい は、さらにその他この史料では確認できない同署構内での殺傷も含めて亀戸事件と呼ぶ場合も ある。 「兵器使用一覧表」には、この他、5日午後1時に亀戸警察署内で歩哨を殴打した日本人 を刺殺した件が掲載されている。事件自体は当時から話題になっていたが(山崎今朝弥,1924, 『地震憲兵火事巡査』,解放社) 、この記録は「刑事事犯等調査書」や警視庁『大正大震火災誌』 にはない。司法省、警視庁は、比較的把握が容易であったはずの警察署内での内地人の殺害も すべてを記録にとどめたわけではないことがわかる。なお、ここで利用した史料から署内での 収容者殺害が確認できる警察署は亀戸警察署だけである。 この他、 「兵器使用一覧表」には、軍隊による内地人の殺害として、5日に習志野廠舎収容避 難民のうち反抗的態度をとった8名を憲兵分隊に護送中、暴行したため全員を刺殺した件及び 5日に豊多摩刑務所で囚人の喧噪を鎮めるため1名、6日に逮捕して王子署に護送中の社会主 義者のうち暴行に及んだ1名を、それぞれ射殺した件が記載されている。また、 「刑事事犯等調 査書」は、2日午後12時ごろ、亀戸警察署神明町派出所で巡査が短刀で切りかかって来た内地 人を斬殺し、5日には巣鴨警察署管内で警察官と自警団の衝突によって自警団員1名が死に 至ったことを記している。警察や軍隊は、必要と認めれば内地人に対しても武力を行使し、死 者を生じていた。 - 210 - 「刑事事犯等調査書」には、民間人が朝鮮人と誤認して日本内地人を殺傷した事件として、 8つの府県で9月2日から7日までに46件を挙げている。これにより死亡した内地人58名、負 傷者31名、関係する同日現在の起訴者は187名、起訴猶予者19名である。警視庁の『大正大震火 災誌』によれば、このうち東京の1件は朝鮮人を隠匿したとして、内地人を内地人と認識しな がら殺害した事件である。 「刑事事犯等調査書」が「何れも其の容姿、態度又は言語の情況等に 因り鮮人なりと誤解され自警団員其の他の民衆の為に害を加へられたるもの」としてまとめて いるのは、必ずしも正確ではないことがわかる。 以上、公的記録を見ても、震災直後に殺傷事件が多発したことは明らかである。そして、こ れらは殺傷事件の全貌を示そうとした調査ではないので、この他にも殺傷事件が発生していた ことは確実である。もちろんすべてではないが、軍、警察、市民ともに例外的とは言い切れな い規模で武力や暴力を行使したことは、重く受け止める必要があろう。 2 略奪事件と警備 大災害に際して略奪事件が発生することは、その後の外国の災害に際してもたびたび報じら れる。関東大震災時に、略奪が広範囲に発生したのは横浜であった。 『横浜市震災誌 第一冊』 によれば、9月2日に焼け残った税関倉庫で略奪が始まり、根岸、本牧、神奈川その他にも波 及したという。 『横浜市震災誌 第三冊』の税関の記事によれば、略奪を行ったのは飢餓に苦し む被災者と無警察状態を良いことにする暴徒で、一部は凶器を携え、凶器を持たないものも興 奮していて、非武装の税関吏は多くは避難のために四散し、残ったものも家族や自分の安全を 保つのがやっとであった。警察に応援を求めたものの全く余力がなかった。その結果、陸軍が 展開する5、6日ころまでに構内の貨物の大半が持ち去られた。9月27日の神奈川警備隊司令 官斉藤少将の報告によれば、治安回復後の子供たちの遊びは東京では朝鮮人迫害の真似であっ たが、横浜では「分捕ゴッコ」という略奪の真似であった。また、当時軍事教練のために各中 等学校に備えられていた小銃が略奪あるいは貸し出しの形で500丁以上流出し、 震災から半月ほ ど経てからようやく回収が本格化している(同第四冊) 。横浜では、軍隊の到着が遅く、警察も 被害が深刻であったため、震災直後には無秩序状態が続いたのである。朝鮮人迫害では、 「刑事 事犯等調査書」 によると、 神奈川県内で2名の殺害しか起訴されていないが、 『横浜市震災誌 第 五冊』 (1927年)所収の回想記からはより多くの事件発生がうかがえ、無警察状態で犯罪事実の 把握が困難だったと考えられる。このほか神奈川県内の小田原、国府津、真鶴の各駅でも貨物 の略奪が生じた (小田原警察署,1923,「小田原警察署管内震災情況誌 第一輯」 ;小田原市,1993, 『小田原市史 史料編 近代Ⅱ』所収) 。 - 211 - 関東大震災当時の最新の近代都市大規模地震災害の先例は、1906(明治39)年4月18日午前 5時12分に発生したサンフランシスコ大地震であった。そして、マグニチュード7.9と関東大震 災とほぼ同規模のこの地震は、関東大震災と同様に水道管に致命的な打撃を与え、消防が困難 となって3日間に10k㎡以上の市街地が焼失し、死者は3,000名以上であった。地震発生直後か ら市内で略奪が見られた。 これに対して、 市長は、 警察官と7時45分に第一陣155名が実弾を持っ て市長の下に到着し、正午までに1,500名が配置についた軍に、火災現場から見物人を排除する とともに、略奪の現行犯を発見次第射撃するように命令を発し、その旨の布告5,000枚を印刷し て配布した。これにより、少なくとも2名が兵士によって射殺されたが、秩序は急速に回復し た。 後に市長にこのような命令を下す権限がなかったことが判明したが、 責任は追及されなかっ た(サイモンス=ウィンチェスター,2006,p.322-346) 。 日本でサンフランシスコ大地震での出兵の教訓が直接参照された形跡はない。しかし、直近 の都市大震災では軍隊が警備に出動し、武力を行使しながら治安を回復することに成功した先 例があったわけで、関東大震災にあたって軍隊が警備に出動したことは、当時の世界的な常識 から見て当然だった。また、国内での都市を襲った地震災害の先例としては1891(明治24)年 の濃尾地震があり、この際にも所在の第三師団が出動して成果を挙げていた。関東大震災時に 兵力の展開が遅れた横浜では、海路で早い時期に到着した救護班や救援物資が陸上の混乱と陸 揚げの労力の不足からすぐには活用できなかった。陸揚げすべき税関倉庫地区が略奪の場と なっていたので、 兵力による秩序回復を待ってはじめて本格的な救護が可能になったのである。 地域に即した自警団活動も略奪や空き巣などの犯罪や失火を抑止し、無秩序状態を防ぐ効果が あったと考えられる。 一方で、主観的には警備のためになされた活動が、殺傷事件の多くをもたらしたことも事実 であった。前節で見たような朝鮮人をめぐる流言の中で、軍隊の到着や活動で安心した人がい た一方で、軍隊の一部が朝鮮人に対して武力を行使したことは、見る人に流言が真実であると いう印象を与えたに違いない。当時の日本人は暴力を是認していたわけではないが、 「尚武」の 気風として武力の行使を伴う勇敢さは是認していた。前例のない混乱の中で、どのような形で 災害に立ち向かえばよいかわからないまま、自分たちの地域を守る、あるいは被災者、犠牲者 の復讐をするために暴力をふるうことが是認されると考えた人が生じたのであろう。殺傷事件 は多様で、甘粕事件のような、日頃の敵意を混乱に乗じて殺意に変えるという類型すらある。 これは犯罪であるが、そのような先例があることに留意して、このような犯罪者に乗じられる ような混乱、また、暴力が是認される雰囲気を醸成しないことが重要である。 1995(平成7)年の地下鉄サリン事件に際し、当時東京市ヶ谷に駐屯していた陸上自衛隊の 連隊長は、幹部学校指揮幕僚課程で学んだ関東大震災の教訓から早期に部隊を現地に進出させ たと回想している (福山隆, 「出動連隊長としての 『地下鉄サリン事件』 覚え書」 『 , 軍事研究』 ,2008 年1月号,p.40) 。確かに、毒ガスという経験のない事態に際し、現場に科学防護服を着た自衛 隊が出動しているテレビ放送は多くの人々に安心感を与えた。これは、発生した災害に最も効 果的に立ち向かえる専門家がしかるべき装備を持って来たという印象を与えたからこそ、効果 - 212 - があったということが記憶されるべきであろう。関東大震災に際しても軍の工兵隊や衛生機関 は同様の効果をもたらしている。そしてこのような、公的機関が適切な形で救護を行っている という事実やその周知こそが、住民の不安を抑え、混乱を防ぐ最も効果的な方策である。関東 大震災時の住民による略奪は主に、横浜、小田原、国府津、真鶴と発災直後に公的機関による 救護がほとんどなされなかった地域で、税関や国有鉄道の駅という公的な施設に対して行われ ている。 住民や被災者の立場に立ったなら、人命救助はもちろん、消防の備え、炊出し、避難民の収 容など、できる範囲で少しでも多くの人命を救い、また、多くの安心を与えるように行動する ことが、直接その人々を助けるだけでなく、混乱を予防して無用の災害拡大を防ぐ最善の方策 である。災害が大規模であれば、テロとの関係などある程度の流言は避けられないし、混乱に 乗じた犯罪も発生する。しかし、テロリストをにわか作りの自警団が捕まえることは、通常不 可能である。一方で、人々が地域で協力し合いながら活動することは犯罪を予防するし、その 中で、手近なカメラで街頭の状況を記録すれば、防災上の資料となるとともに、犯罪の防止に も効果があるだろう。治安の維持は災害に立ち向かう上で重要であるが、直接的な警備だけで 達成されるものではない。 - 213 -